2001年9月11日のこと④
2001年9月11日のこと③の続きになります。
「つづく」にしていて、書きかけを保存したままになっていました。
書こうとすると記憶が曖昧なものばかり...
はっきり思い出せないことの方が多くなってきましたが、ここで思い出しておかないと、どんどん記憶が薄れてしまうのではないかと思うので、思い出せる限り思い出してみようと思います。
アパートメントホテルに戻り、知人の無事を確認したあと、テレビをつけました。
どのチャンネルも情報と分析、ワールドトレードセンターに飛行機が追突する場面の映像が繰り返されていました。
実際、ニュースを見ても、事態の真相がまだ十分理解しきれていないことだらけでした。
ここのケーブルテレビが日本のテレビ番組が見られる契約になってることがわかり、NHKとフジテレビ(時間制限あり)を見ることができました。
日本の番組は、CGを駆使したり、過去の映像なども交えて分析し解説されていてとても分かりやすく、現時点での真相を知ることができました。
夕方、再びNY在住の知人が来てくれ、出かけようと誘ってくれました。
「ジュリアーニ市長が、“ニューヨーカーはいつものようにナイトライフを楽しめ”と市民に呼びかけたから、僕らも出かけよう!」と。
スーパーマーケットやグロッサリーストアは閉まっていたので、バー(ビアバー)が開いているのか気になりましたが、実際、バーもレストランも普通に営業していました。
彼の行きつけのバーへ行くと、店内は人・人で混み合っていて、日本の通勤ラッシュの電車の中のような混雑ぶり。
ジュリアーニ市長が「いつものようにナイトライフを楽しめ」と言ったからといっても、こんな日は何が起こるか分からないから、安全のために自宅に篭る人が多いのではないかと勝手に想像していたのですが、そうではなかったのです。
バーでは、そこかしこから、不安や恐怖を口々にしている声が聞こえてきました。
それとともに、アメリカはテロに報復すべきだという声が聞こえてきて、憤りや怒りがおさまらず興奮している様子が伝わってきました。
実は、半年前の3月、私たち夫婦はニューヨークに旅行で来ていました。
その時に知人と奥様にワールドトレードセンター最上階のレストランに連れて行ってもらったのです。
半年前に行ったばかりのワールドトレードセンターですが、
記憶に残っているのは、
ドレスコードがあったので出かける時何を着ていくか悩んだこと、
高速エレベータに乗った時の様子や会話、
エレベータから降りて、レストランの入り口まで距離が長かったこと、入り口の装飾がキラビヤカだったこと、ドアマンの様子、
レストランの外壁が足元からガラス張りだったので、高所恐怖症の夫が食事をしている最中も落ち着かなかったこと、
あの時の夜景(ハドソン川、道路やビル)、
もうお腹がいっぱいだというのに、デザートが半端なく山盛りで出てきてビックリしたこと、
知人の奥様がかなり多めのチップを渡したのですが、そのときのウエイターの反応、など...
一つ思い出すと、大したことでもない記憶まで出てきて、薄れていた記憶が思い出されてきます。書いていて自分でも驚いています💦
そんな思い出のあるワールドトレードセンターが、今朝、テロリストに破壊されてしまったのです。
知人は、日本に住む高齢のお母様をニューヨークに招待した時に、最上階のレストランに連れて行ったそうです。お母様はとても喜んくれ、知人にとってもお母様にとっても思い出深いレストランだったのだそうです。
バーでは、そんな思い出話しをしつつ、最も気になっていたのは、「アメリカはどういう行動に出るか」でした。
今日のような日は、やはり外へ出て誰かと話す、それが憤りや怒り、不安を吐き出す機会になる。また、被害者を悼み、テロと戦う気持ちを確認する。そういう機会になるのだと感じました。
実際、ジュリアーニ市長が市民に呼びかけた言葉がどんな言葉だったか、私の記憶が曖昧だったのでネットで検索してみました。
森下公江さんのブログ「ジュリアーニ市長が語る9.11」がとても分かりやすくまとめてありました。
その中から一部を引用させていただきます。
「・強くいること
通常の生活に戻り、買い物をしてレストランで食事を取ろう。何も恐れていないことを示そう。打たれても屈しない強さ(Resiliency)がテロへの最も有効な攻撃だ。」
とてつもなく長く感じた一日、とても疲れました。
2011年5月1日、ワールドトレードゼンター跡地グラウンドゼロを訪れたとき、なんと、偶然にもウサマ・ビンラディンが殺害されたニュースが報道された直後でした。
この続き、少しずつ思い出していつか書きたいと思います。
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